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長崎の教会群とキリスト教関連遺産
概要
1570年、ポルトガル貿易港として開かれた長崎は、イエズス会の本部が置かれ日本におけるキリスト教布教の重要な拠点となりました。長崎は「日本の小ローマ」と呼ばれ、キリスト教文化が栄え教会群が建てられています。1582年に長崎から船出した天正遣欧少年使節は、ローマ教皇への謁見も行っています。 その後、豊臣秀吉によって「伴天連(ばてれん)追放令」が出され、宣教師やキリシタンの処刑を行われました。続く徳川幕府が発した禁教令によって、長崎にあった教会群もすべて破壊されました。仏教への改宗が強制され、転宗しない信者には厳しい迫害が加えら、島原の乱を経て、さらにキリスト教への弾圧が徹底されました。こうした歴史の痕跡は現在も残存し、キリスト教関連史跡等として保存・継承されています。 1641年の鎖国の完成後も、長崎では教会もなく神父もいないなかで、信徒たちは地下組織をつくりあげ、洗礼やオラショを伝承し、潜伏してキリシタンの信仰を守り続けてきました。そして開国を機に、1864年、長崎の南山手居留地に、大浦天主堂がプチジャン神父らにより建てられました。献堂式から1ヶ月後、浦上の信徒数名が訪れ、神父に信仰を告白しました。いわゆる「信徒発見」という出来事です。250年の潜伏を経ての信徒復活の知らせは、宗教史上の奇跡として世界中を巡り、大きな衝撃と感動を与えました。長崎港外の島々や、外海(そとめ)、五島、平戸、天草などに潜んでいた信徒たちも次々と神父の指導の下に入りました。 しかし、明治維新政府は幕府の禁教政策を引き継ぎ、浦上信徒総流配などを断行し、迫害は外海、五島の島々まで及んでいます。信仰の自由が黙認されたのは、1873年の禁教の高札撤廃後のことでした。 長崎は信徒数で全国の約15%を占め、現在もキリスト教の中心地であります。原爆の被爆後に再建された浦上天主堂(大司教座教会)を頂点にして、教会数は約130棟にも及んでいます。 世界遺産登録基準における(ii)(iii)(iv)(v)(vi)の要件に該当すると考えられています。
  • (ii)長崎の教会群とキリスト教関連遺産は、大航海時代におけるキリスト教と西洋文化のわが国への伝来と融合、鎖国時代の禁教下における伝承、そして開国後の新たな交流という、世界に類例のない東西文化の複雑な交流過程を顕著に示している。
  • (iii)長崎の教会群は、16世紀末からの殉教や弾圧にも関わらずキリスト教信仰が連綿として継承され、現在も生き続けていることの物証として無二の存在である。
  • (iv)長崎の教会群は、外国人神父の指導と日本人大工棟梁の伝統的技術に基づく創意工夫によって建設されており、それらは、日本における教会建築の発展過程や、西洋と東洋の建築文化が融合した多様な展開と高い造形意匠の達成を示す顕著な見本である。
  • (v)長崎の教会群は、大部分が県内でも辺ぴで狭隘(あい)な潜伏時代の居所に点在していて、現在でも地域のそれぞれにおいて特色ある自然地形と緊密な関係のもと、農漁業を生業として造り上げた集落景観と一体となり、地域住民の生活と精神の拠り所として、それぞれに優れた文化的景観を形成している。
  • (vi)長崎の教会群とキリスト教関連遺産は、迫害と殉教、また世界史に類を見ない250年の潜伏からの劇的な復活という世界に大きな衝撃と感動を与えた出来事の直接的な舞台である。さらに、本資産は日本の著名な文学作品の主題及び舞台になっており文学史のなかでも重要な位置を占めている。また、400年を経て今なおカクレキリシタンに歌い継がれている「オラショ」は、宣教師によりもたらされた典礼音楽のグレゴリオ聖歌や16世紀のスペインの一地方の聖歌を原形とし、当時の形態を伝承するものである。


大浦天主堂
大浦天主堂
黒島天主堂
黒島天主堂
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